1780年代ウィーンと《平均律クラヴィーア曲集》第二巻

資料伝承から垣間見る複雑でユニークな受容史

富田 庸

日本音楽学会関東支部例会・研究発表論文(1997年2月8日)


概要

 《平均律クラヴィーア曲集》は、バッハの死後から出版されるまでの50年間、筆写譜を通し広く知られることとなったが、今回の発表では1780年前後にウィーンで書かれた一風変わった一群の楽譜資料6つを取り上げる。これらの資料は第二巻のフーガのみを抜粋した曲集となっているのが特徴で、そのテクストには誤りや異形が散在し、それは明らかに写譜のミスと分かるものから音楽的に処理された「改善」としか考えられないものまで質量ともに広く存在し、現存する資料中にその改訂の過程が確認できるものも多い。ここでは、資料批判の見地から、これらのバッハ資料の持つテクストの特徴がどのように発現し、定着し、伝承されていったかを究明する。

 ここでの《平均律》の伝承の歴史は二つの経路を持つが、特にモーツァルト研究にとっては弦楽三重奏(KV404a)と四重奏(KV405)用のフーガの編曲の伝承の源となっているところが意義のある所である。

 ここに観察される複雑な編集過程の歴史を細かく探究していくと、幾つかのはっきりした層が確認できる。それは、当時の記譜上の癖が、バッハの対位法音楽を記譜法上の破壊に導く危険性を孕むものであったことを示すと同時に、ある決まった楽曲の表現様式上の偏った嗜好がバッハのオリジナルを順次蝕んでゆくといったテクスト変遷の過程を浮き彫りにしている。その改訂を受けた箇所を分析してゆくと、その背景には旋律、和声、リズム、そしてテクスチャーの面全てに於いて、古典的なイディオムが優先的に捉えられていたという事実が見えてくる。そこから観察できる過程を順に追って歴史の再構築を試みるが、明確で一貫性をもった編集政策はその背後には確認できない。それはこの伝承のルーツであると考えられるスヴィーテン男爵と彼を取り巻く音楽家達、また当地でのフーガという楽曲形式に対するイメージが、お互いに影響し合った結果の産物であったことが原因になっていると考えられる。ここで特に興味深いのは、アルブレヒツベルガーが早い段階から「最新の表現様式で編集されたバッハの24のフーガ集」の編集責任者であったらしいことと、後の段階で観察されるモーツァルトの貢献が考えられることである。

 このウィーン独特の《平均律》の受容史がいつまで続いたのかを突き止めることは、これからの研究課題であるが、現在の段階で確実なのは、1801年から出版されはじめた印刷譜の普及が大きな転換期を齎したことである。この資料中の幾つかは、それらと比較されたことで、混交されることになった。つまり、1780年頃の音楽の都、ウィーンにおいて興り、今日までに知られることのなかった、《平均律》の一連のユニークな受容史は、こうしていつのまにか幕を閉じていたのであった。


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最終変更: 1997年3月15日